2007年ハイキング/トレッキング

榛名山(有馬山)(11月4日,群馬県高崎市,晴,1411m)
新聞は,今日が榛名山の紅葉が見ごろ,と書き立てる。榛名山に登れば上毛三山が揃うので,出掛けてみた。渋川伊香保ICの手前の駒寄PAで関越自動車道を降りた。何やら昔の街道のような道を走り,やがて水澤観音に出た。ここはいつかは坂東三十三ヶ所観音霊場の巡礼で訪ねて見るつもりだ。伊香保温泉を抜けて榛名山へ導く道は紅葉のトンネルであった。
8時半に榛名湖畔に着いた。ここは37年前に訪れたことがあったが,その時は榛名湖も榛名富士ももっと雄大だった記憶がある。自動車道を数10メートル行ったところで関東ふれあいの道に分け入った。

木の階段が延々と続く道で,振り返れば掃部ケ岳が目の前に見える。次にここを訪れるのはいつの日になるだろうか。着込んだフリースを脱いで,20分ほど登ると氷室山だった。

氷室山で水分補給をして下って登り返すと1303mの天目山だったが,ほとんど気付かずに通り過ぎた。七曲峠への道は熊笹に囲まれた軟らかな土の気持ち好い下りだった。峠で自動車道を渡りツツジ峠へ向かう道もススキを分けながらの快適な道だ。今日のコースはやけに階段の木道が多い。階段だと歩幅が決められてしまうので,マイペースを保ちにくく疲れやすい。階段でない, それも土の道に出るとホッとする。

そうこうしているとまたも階段の木道だ。松之沢峠へ向かう木道を下ると正面に相馬山が望める。なんとも珍妙な姿だ。松之沢峠からの眺めは榛名湖,榛名富士,掃部ケ岳,烏帽子岳などが一望できた。この頃から雲が多くなり,ちょっとすっきりしない天気になって残念だ。

松之沢峠を過ぎると相馬山の隣に大きな岩が見えてきた。あれが磨墨(するす)岩だろう。岩を回り込んでみると小さな指導標があり,それによると鉄ハシゴで上まで行けるようだ。カミさんは行きたくないというので一人で行ってみた。岩の頂上に這い上がるとカラス天狗の石像があった。下を覗くとクラクラして吸い込まれそうだ。眺望は素晴らしいが,立ち上がって見渡すのも恐いくらいだ。一歩一歩に気をつけて,カミさんの待つ岩の下に戻った。

岩の下には,行人洞という案内板がある。カミさんが行ってみたが途中で引き返したそうだが,自分は更に探検してみることにした。有馬山に百回登った行者の記念碑や新しく彫られた磨崖仏があった。

磨墨峠の東屋を過ぎたところで腹が減ってきた。有馬山をアタックする前におにぎりと味噌ラーメンで腹ごしらえをすることにした。

相馬山は岩がゴロゴロした急斜面を鉄ばしご,鉄鎖を伝いながら這いつくばって登らなければならなかった。あちこちに修験者や霊を祀る碑がある。

頂上には黒髪神社が祀られている。立ち木や石碑が多く,期待した皇海山や日光連山が見えない。コーヒーを飲んで羊羹を食べて,早々に下山した。

30分もしないうちにヤセオネ峠に下り立った。バス停で時刻表を見ると,3分前に榛名湖行きのバスが出てしまったようだ。5分ほど待ったがやはり乗り遅れたようで,しかたなく歩きだした。

ところが10分も歩いたころ,路線バスに追い越された。20分以上も遅れていたようだ。自動車の排ガスを避けようと,脇道に入るとユウスゲの道という案内板があった。湿原に設えられた木道を歩いていくと,ススキの原っぱの向こうには今さっき歩いてきた外輪山が見えた。バスに乗らなかったお陰でこんなに好い景色がみれたね,とカミさんと負け惜しみを言いあった。

榛名湖が見えてきたあたりで再び脇に入り,ビジターセンターを覗いて,竹久夢二が愛した榛名湖の風景を見ながら湖畔をブラブラと駐車場に向かった。GPSは歩行距離14.4キロ,実働時間4時間37分を示していた。


さて,今日は伊香保でゆっくりと温泉につかって疲れを癒し,温泉まんじゅうを頬張りながら温泉街をぶらつく光景を頭に描きながら伊香保にむかった。ところが,いくらも行かないうちに渋滞にはまってしまった。何台かの車がUターンするのでこちらも戻って高崎に向かうことにした。再び榛名湖に戻ってところで,ゆうすげの湯の看板が目に入ったので立ち寄った。風呂から出たら4時半をまわり,湖面には薄闇が立ちこめていた。酒まんじゅうを買って榛名湖を発ち,高崎,伊勢崎,館林,古河を経由する下道を走って帰宅したのは10時半であった。ラジオはまだ関越自動車道の渋滞を報じていた。
安達太良山(9月24日,福島県二本松市,曇,1700m)
お彼岸の三連休は前回の三連休とは打って変わってようやく秋が来たような,しかし,曇の天候となった。天候の回復を願いつつ最終日に,千恵子の言う「ほんとうの空」を探しに安達太良山に出かけた。今回は常磐・磐越・東北道を使ってのクルマでのアプローチだ。
6時過ぎに出発して,曇り空の中を二本松ICで降りた。安達太良スキー場には3時間で到着したが,ここで雨が降ってきた。歩けば1時間余のところだそうだが,あだたらエクスプレスというゴンドラリフトに6分間乗って今日の歩き出し地点に降り立った。ゴアテックスのレインウェア,スパッツ,帽子に身を固めて霧の中を歩き出した。

と,降りてきたハイカーが「上は曇りで稜線も見えるくらいの天候で,その格好じゃ暑いよ」というので着込んだ雨支度をもとに戻すことにした。カミさんはかなり身軽な格好になった。さっそうと切り株を並べた木道をいざ頂上へと向かった。霧のために薬師岳展望台をパスして,木道を進んでいく。随分と楽な道だが,上にはとんでもない道が待っているかもしれないと思いながら歩を進める。

木道はやがで階段になってシャクナゲのトンネルを進んでいくようになった。初夏にはさぞかし楽しい道になるだろう。この季節ではリンドウだが,陽がでていないので蕾の状態でしか見ることが出来ない。ちょっと残念だ。

30分ほど歩いたところで,県民の森分岐点に着いた。このあたりから道には岩がゴロゴロと出てくるようになったが,それほど歩きにくいほどではない。さらに高度を稼いでいくと岩だらけとなり,歩くのが困難になった。頂上は近そうな気がする。

歩き始めて1時間あまり,ようやく霧の中におっばいというか乳首のような安達太良山の頂上が見えてきた。隣をあるく3歳と5歳の子どもは「おっぱい,おっぱい」と喜んでいる。さらに岩と砂交じりの登山道をペンキのマーキングをたよりに10分ほど登ったところで,乳首の根元に着いた。

頂上は思ったよりも広いが風が強いので下に降りてランチを取ることにした。視界は悪く,ときおり牛の背が見える程度だ。アペタイザーのビール(発泡酒)を飲むが,それほど汗もかいてないし気温も高くないので,あまり旨いという感じではない。おにぎりと野菜たっぷりラーメンでエネルギーと補充して,早々に牛の背に向かった。

牛の背に向かう稜線は,茶臼岳に似ている。しかし,茶臼岳登山の時のように強風には見舞われてない。下の方にはここを迂回するルートが霧の晴れ間に見える。10分ほど余分に歩けば合流するようだ。稜線には大小様々なケルンが積まれている。その中には亡くなられたハイカーの碑となっているものもあった。

やがて,左手に荒涼とした月世界のような沼ノ平が見えてきた。ここは火山ガスのために立ち入り禁止となっている。沼ノ平を見送ってくろがね小屋へのガレ場を進んでいく。

沼ノ平から足首の捻挫を恐れながらガレ場を下ること50分ほどでくろがね小屋に着いた。400円で風呂に入れるそうだが,さっぱりした後で靴下,靴を履いて更に歩かなければならないのがイヤで止めにした。のんびりと紅葉でも眺めながら,ここに泊まるのもいいかもしれないね,とカミさんと話しながら下山路を辿る。下山路はクルマが通れるほどの広さになり,かなり平坦だ。脇には石垣があり,どうやらこの中が岳温泉に湯を送る通路になっているようだ。

くろがね小屋から奥岳登山口までを馬車道というらしい。小屋から遠くないところに金名水が流れていた。飲んでみるが,硫黄臭さは感じない。汗をかくほど暑かったらさぞかし旨かろうに。馬車道脇の石垣はやがてコンクリートに代っていった。その上にはかつて使われていた湯を通す木のパイプが残っている。

馬車道を横切る旧道があるが,狭くて傾斜も急なようだ。なりよりも雨の後で滑りやすそうなので,そのまま単調な馬車道を下っていくことにした。小屋から1時間ほどで安達太良スキー場が見えてきた。ここで湯を沸かしてカフェラテを飲み,ミニ餡ドーナツを食べた。さらに下っていくと,あだたら渓谷自然歩道の烏川橋に着いた。ここは素通りして,出発点の奥岳登山口にたどり着いた。連休の最終日にしては観光客が多いようだった。行きにゴンドラを降りた時に書いた登山計画書の半券を投函するのを忘れなかったことをカミさんに褒められた。

クルマに荷物を積み込み,岳温泉に下りて日帰り温泉で疲れた体をほぐした。岳温泉ってもっと山奥にあるひなびた温泉かと思った,とカミさんがいう。温泉街も大きくもないが,鏡が池公園に向かう並木道は春のきらびやかさを予想させるに相応しい桜の古木が並んでいた。ゴンドラリフトを利用した山行であったが,10.6キロの行程に5時間30分(実働3時間58分,休憩1時間32分)かかった。

棒ノ嶺・黒山・岩茸石山・惣岳山(9月17日,埼玉県飯能市。東京都青梅市・奥多摩町,晴,969m・842m・793m・756m)
三連休は夏が戻ってきたような暑さだった。それでも,沢を歩くコースは涼しかろうと,かねてから計画していた棒ノ嶺にでかけた。コースは関東ふれあいの道を奥武蔵から奥多摩へとぬける長丁場である。クルマを使わない山行は久しぶりだ。6時23分の常磐線で発ち,西武線飯能からバスに乗り9時半頃に名栗湖畔のさわらびの湯に降り立った。まずは腹ごしらえをしてあるきだし,有間ダムを目指した。

ダムの堰堤を渡りしばらく行くと,棒ノ嶺への登山口に行き当たった。涼しげな沢の水音を下に聞きながら,高度を稼いでいく。汗はダラダラと流れ,シャツもグッショリと濡れるほどの暑さだ。

しかし,やがて道はハイカーを沢のすぐ近くに導き,ゴルジュとなった。こうなると天然のクーラーのようでヒンヤリとした空気の中をさらに高度を稼いでいく。何度か沢を横切って歩かされるが,靴が濡れるほどの水量ではない。予想を遙かに上回る素晴らしいコースだ。

やがて鎖場の急登坂にさしかかり,林道に出たところで沢と離れることになった。ホッとするのもつかの間,イヤな丸太の階段に出合った。

またもや吹きだした汗を拭いながら岩茸石に到着した。やれやれ,ここまで来れば棒ノ嶺の頂上へはあと一息だ。フ〜と言う脇でオオバギボウシが「お疲れさま」と出迎えてくれた。

ここから辛い階段をもうひと登りすると権次入峠に到達する。目にかかる汗を拭いて下界を眺めれば,スタート地点の名栗湖が見えた。

この先はなだらかな尾根歩きだ。ヤマジノホトトギスだろうかヤマホトトギスだろうか,道端に咲いているのを眺めるうちに棒ノ嶺の頂上に着いた。

東北の方角には秩父の大持山,武甲山が望め,西の方角には多摩湖や西武ドーム,そしてその向うには新宿のビル街が霞んで見える。

保冷剤に包まれた発泡酒と柿ピーで乾杯して,野菜たっぷりのラーメン,ゆで卵のランチを取った。このビールじゃ流した汗はリカバー出来ないが,これ以上飲むと足下が覚束なくなる。

帰路は長旅になりそうなので汗が引いたところで出発した。次の目標は黒山だ。ふたたび権次入峠に戻って黒山に向かう関東ふれあいの道を進むと,道端になにやらレリーフを見つけた。2007年5月12日にトレールランナーの高橋香がここに眠る,とある。40歳の若さでレース中に心臓麻痺でなくなったそうだ。

冥福を祈りながら,風が涼しく吹いてくる杉木立をあるいて黒山に到着するものの,残念ながら眺望は無い。

岩がゴロゴロする道を下りながら高水三山の一つの岩茸石山に向かう。この辺りで,左の膝が痛くなってくる。フルマラソンの2回目でカミさんに置いてけ堀にされた時の痛みだ。

岩茸石山の頂上には先客が1人いた。地図を開いて,棒ノ嶺,黒山を同定する。走行するうちにもう1人のハイカーが到着した。棒ノ嶺からこちらに廻るハイカーは少ないようだ。

午後の光に輝いて見事に咲き誇るヤマハギを愛でながら最後のピークの惣岳山に向かう。

惣岳山に取りかかるところで,巻き道があった。疲れたカミさんはこちらを,自分はゴロゴロ道を頂上に向かうことにした。惣岳山の頂上は展望は利かないが,大国主命を祀る青渭神社があった。なぜか厳重に金網で囲まれていた。

神社を降りると水場に出合った。飲めるかどうか先客に聞けば,もう飲んじゃった,という。自分も飲んでみたが特に異な味もしない。今晩になれば分かるだろう。ここで先ほどの巻き道が出合ったので,すこしするうちにカミさんが降りてきた。やれやれ,再会できて良かった。ここからの下りはカミさんが回復したのか,自分の膝に痛みが耐えられなくなったからか,スローペースになってしまった。5時過ぎに御嶽駅に着きたいのだが。騙し,騙し歩を進めて3つほど鉄塔を越えたところで,電車の音が聞こえてきた。ようやくゴールの慈恩寺に着いた。御嶽駅は一緒になる前のカミさんと御嶽山,日原鍾乳洞に来たのが最後だから35年以上も前のことだ。

御嶽駅の前には旅館があったが,立ちより湯は無いらしい。立川駅まで出て駅ビルの焼き鳥・釜飯屋でジョッキを二杯空けた。それにしても,予想外に長旅になってしまった。歩いた距離は16.0キロ,総時間は7時間45分を費やした。階段を下りるにも手すりに頼らなければならないくらい膝を痛めたが,あの白谷沢はもう一度訪ねてもいいね,とカミさんと言うと肯定の答えが返ってきた。

岳ノ山・大鳥屋山(5月4日,栃木県佐野市,晴,704m・693m)
連休の後半はアカヤシオと新緑の頃がおすすめという岳ノ山・大鳥屋山に出掛けた。それほどの交通渋滞もなく三時間ほどで旧葛生町の駐車場に着いた。杉木立の中の気持ちの良い林道をまずは五丈の滝を目指した。

指導標にしたがって20分も進むと五丈の滝へ下りる階段に出合った。水音がしないので期待はしなかったが,案の定,チョロチョロと流れる滝でしかなかった。水が豊であれば県南随一の滝になるそうだ。

元に戻り,カミさんが見つけたヒトリシズカを見ながら滝見の松に回る。が,松は枯れていた。鎖柵からおっかなびっくり下を覗いてみたが滝は見えない。そのかわりに日光の山々がうっすらと見えた。

やがて沢を渡りながら登っていくと,またもやカミさんがホウチャクソウやチゴユリを見つけた。いつもながら何処で仕入れた知識なのかと羨ましくなる。

それらの脇には,すでに高尾山でお勉強をした,白いイカリソウが咲いていた。

さらに間伐した杉の倒木だらけの沢筋を登ると,花の無いヤグルマソウやエンレイソウが見つかった。どうも,今一つもの足りない,今日の山行だ。

滝見の松から30分ほど沢を来たところで,いくつかの炭焼き窯跡がある開けたところに出た。そしてここから急峻なジグザグの嫌になるほどの登りが始まった。きょうも25度をこえる夏日の熱さだ。さすがにこの登りはこたえた。

ようやく尾根にでて視界が開け,5分ほど歩くと岳ノ山の山頂に着いた。ここまでで,期待したアカヤシオにはまったくお目に掛かることがなかった。もはやアカヤシオは終わってしまったようだ。苦労して登ってきたのに,報われるものがなかった。まぁ,こんな山行もあるさ,とカミさんをなだめてランチにする。せめて,ビールでも持ってきたらと悔やまれた。

山頂からの展望はあまり開けていないが,それでも日光男体山と遙か彼方に皇海山(多分)が見えた。

腹を満たしたところで,次の大鳥屋山に向かって,一歩誤ったら命も危ないというような痩せた尾根を下った。わずかにミツバツツジが残っていたが,のんびりと眺めていると滑落しそうだ。

再び杉林の尾根を歩き,ピークを越したところでT字路に行き当たった。左手には赤テープがあちこちの枝に巻かれており,前方には何もないので左に降りていった。すると,中年夫婦のハイカーに出合い,尾根はまだですか,と聞かれた。向こうは,駐車場から別ルートで上がってきた,という。ということは,我々は大鳥屋山から引き返して下山する分岐を下ってしまっていたということなる。戻ってGPSをみれば確かに下山路の分岐のようだ。なんのためのGPSなのか,とカミさんに言われるのを覚悟したが,疲れていてそれどころではないようだ。
気を取り直して,フモトスミレが群れ咲く岩だらけの道を上って行くと,平らな広場に出た。祠の脇には一等三角点があり,ここが大鳥屋山(おおとやさん)ということがわかった。周りは木立だらけで面白くもなんともない山頂だ。

先ほど早とちりした分岐までもどり,巻き道を下っていくと林道に出会い,やがて駐車場に行き着いた。3時前という早い時刻だったので,近くの秋山学寮を訪ねてみた。古代体験が出来るという野外施設には縦穴・横穴住居の宿泊施設やらログハウスやらがあった。

疲れた割には9キロそこそこの行程でしかなかった。この次は那須のシロヤシオか千手が浜のクリンソウに是非ともお目にかかりたいものだ。


小仏城山・高尾山(4月15日,東京都八王子市,曇|晴,670m・599m)
もう35年は経っているだろうか。高尾山を訪ねてみようと言うことになった。神田から乗った中央線は,新宿駅工事のために午前中は,すべての電車が各駅停車であった。高尾駅に着いたのは10時半になっていた。それでなくとも狭い北口はハイカーで溢れていた。小仏行きのバスも長蛇の列で,2台の臨時バスが仕立てられた。3台のバスは連なって狭い旧甲州街道を走り,小仏に連れていってくれた。
終点のバス停に降りてGPSの設定やら写真を撮ったりで,のんびりと出発した。アスファルトの旧甲州街道はやがて車は進入禁止になり,秩父の巡礼道を思い出させる,土の昔ながらの甲州街道となった。

カミさんが面白い植物を見つけた。全く眼の効くカミさんだ。ヨゴレネコノメソウという花のようだ。なるほど薄汚れた黄色っぽい花らしきものがある。それにしてももうちょっと良い名前は付けられないものか。おなじみのニリンソウも咲いていた。

小一時間も歩いたところで小仏峠に着いた。ここからは陣馬・景信山への道が続いているが,今日は高尾山だけをのんびり,花を見ながら,撮りながら歩く予定だ。そのつもりで重い100ミリのマクロレンズも持ってきている。峠からは東海自然歩道が相模湖方面に延びている。そちらを見れば,うっすらとした富士山をのぞむことができた。

ここからは拍子抜けするくらいの楽な道が続き,ギザギザ3枚葉のエイザンスミレを観賞したりしながら20分ほど歩いたら城山に着いた。城山には茶店もあり,おでんやビールも売っていた。ちょっと早いが,この先は混みそうなのでここでお昼の休憩を取ることにした。お約束のビールで乾杯し,野菜たっぷりチキンラーメンとおにぎりのランチだ。

お腹も一杯になり,茶店の下の園地を見に行きます。見事なヤマモモやスイセンが咲居ていたが,周りの自然となんとなく調和が取れてないように感じた。

一丁平にむかう道は関東ふれあいの道と東海自然歩道が一緒になっている。広々としたのどかな道だ。カミさんがヒトリシズカを見つけてくれたので,這いつくばって撮影した。なんでこれが静御前だろう。

マムシグサかと思って撮ったが,帰宅して調べてみるとどうやらミミガタテンナンショウのようだ。なるほど耳が付いている。その脇には鮮やかな緋色のクサボケが咲いている。悔しいけど,本当にカミさんは草花を良く知っている。

城山でもらったパンフレットに出ていたイカリソウにも出合った。紫の濃いものがあると思えば白いものも見つかった。このイカリソウは恐らく私の人生で初めての出会いだろう。

斜面の下から窮屈な姿勢でファインダーを覗けば,なるほど,錨のかたちだ。でも船の錨は3本足じゃなかったっけ。ところで,その隣のスミレはタチツボスミレかな。ちょっと自信がないが。

と,あれこれ野草を探しながら40分ほど歩くと,コブシとサクラの咲き乱れる一丁平に到着した。ここも人人人だ。辺りにはミツバツツジが咲き誇り,周りの空気が紫色に見えるようだった。

高尾山に向かってさらに歩くと,またまた茶店だ。ほんに,手ぶらで来ても大丈夫だ。このあたりで目にとまったのは,モミジイチゴとマルバスミレ(多分?)だろうか。

ますます人が多くなってきた。高尾山頂は埃っぽく,全くの俗世界だ。ハイキングシューズとスティック姿が大げさで恥ずかしいくらいだ。

山頂を後に,高尾山の奥の院不動堂,薬王院大本堂を訪ねた。あちこちに大天狗,小天狗さんが立っている。ご本尊は飯綱大権現ということだが,薬師如来,不動明王,愛染明王,歓喜天も祀られている。さらに,大師堂のまわりには四国八十八ヶ所の霊場も用意されている。まぁ,賑やかだ。

参道に並ぶ店を冷やかしながら,ケーブルカー・リフトに向かうが,これには乗らずにJR高尾駅まで歩くコースを取ることにした。舗装路から再び山道に入ると道端いっぱいのシャガが出迎えてくれた。

1時間ほど歩いてところで,4時過ぎに高尾の町に戻ることができた。帰りは中央線特別快速も運転されていた。

電車の中でカミさんは,色々な野草に巡り合えて面白かった,と言ってくれた。帰宅後,GPSの軌跡を見ると,歩いた距離16.7キロと意外に長いものになっていた。



秩父巡礼4(4月1〜2日,埼玉県秩父市・小鹿野町,晴/曇)
パート4は三十二番から三十三番を半日で回って泊まり,翌日は結願となる三十四番を巡礼する日程とした。 前回よりも早めに家を出たおかげで,池袋で秩父鉄道に乗り入れる三峰口行きの電車に飛び乗ることができた。今日の天気は良さそうだが明日は雨らしいので,予定を変更して今日のうちに青雲寺の枝垂れ桜を見物することにした。電車は西武秩父駅を経由して武州中川に着いた。駅は人盛りで,どうやら皆さん青雲寺の桜見物のようだ。青雲寺は,前回の参拝の人気の無さはどこえやら,人人人で一杯だった。そして,枝垂れ桜ももう一息で満開という状態であった。枝垂れ桜の花は思いの外小さく,しかし可憐に咲いていた。カミさんも念願の枝垂れ桜を見れて満足の様子だった。それにしても見事な枝垂れ桜である。

御花畑駅から西武秩父駅にもどり,小鹿野方面へのバスを待つ間に弁当を買った。ほどなく来たバスの中で腹ごしらえをしているうちに30分程で小鹿野警察署前に着いた。歩き始めるとすぐに見事な欅が出迎えてくれる。金園橋を渡って巡礼がスタートした。

緩やかに登る道はやがて小判沢の集落に導いてくれた。道の脇には金精宮があり,オチンチンを祀っているのが見える。日光の金精山,金精沢,金精道路もみんなこのオチンチンの意味だったんですね〜。少子化が叫ばれる今日ですが,この部落では人手は切実な問題だったんでしょうね。金精様を見送り,なおも登っていくと左に大日峠への道を示す案内板があった。ここからアスファルトではない巡礼道が始まった。

何回か沢を渡り歩を進めていくうちに25分程で大日如来と地蔵尊を祀る大日峠にたどり着いた。

20分も下ったところで,2年半前に訪れて見覚えのある,三十二番札所の法性寺の山門に着いた。

何段か石段を上がり,岩場に穿ったように建てられた観音堂に参拝する。堂の裏手には岩窟に石仏が座している。スリッパに履き替えてお参りしようとすると目の前の木魚と鉦に気が付いた。前回もあったんだろうか。カミさんに鉦をたたいてくれと言うもあっさりと断られた。で,自分で木魚をたたきながら般若心経を唱えたが,これがまたリズムがとれて気分良く読経できた。最後にカーンと鉦をならして参拝を済ませた。今までで最高の出来の読経と自画自賛した。

ここから奥の院を訪ねてみようと言うことになった。これが,また,思いの外難渋した。鎖場をよじ登った大きな岩(岩船)の両端には岩船観音と大日如来が座している。ここへのお参りするはヒヤヒヤものだった。カミさんは足がすくんでお参りを中止したくらいだった。

奥の院参拝で1時間を費やして納経所に戻り宝印を頂き,前回と同じように苦を抜くというクヌギの箸を買い求めた。
法性寺から一時間ほど歩いて,立派な宮本荘を過ぎてR299を渡った。ここからは再びしっとりと落ち着いた田園風景の中を歩くことになった。やがて,右手に小鹿野化石資料館とその背景に陽の崖の意味で1500万年前の海の堆積跡の「ようばけ」が見えてきた。翌日はこのようばけを間近でみる羽目になるとは思いもよらなかった。

法性寺を発って一時間半ほどの4時半に三十三番菊水寺に到着した。ここの観音堂は土間があり,堂内に納経所がある。その納経所の坊さんの前で読経することになってしまった。まぁ下手でも良いわい,とばかりに心経を唱える。巡礼もこのあたりになると大分慣れてきて図々しくなったようだ。

さて,今日の泊りは彩の森カントリークラブというゴルフ場のホテルだ。場所はこの菊水寺から一山越した向こう側にあるはずだ。グルッと回って行くのも遠いので事前に地図で調べたら,菊水寺に縁の深い八人峠を越えれば近いことが分かった。地元のおばあさんに峠への入り口を聞いてみると,峠道は崩落があって通行不可と言うことだ。さらに,この時間では暗くなり危ないので止めた方が良いという。そこで,やむなく伊古田集落を通ってゴルフ場を一回りする道を歩くことにした。ときおりゴルフ場がチラチラ見える道を恨めしく思いながら,次第に暗くなる中をひたすら歩きようやくホテルに着いたのは6時15分をまわっていた。この間のカミさんの駆け出さんばかりのパワーのすごいことにただただ驚くばかりだった。

夕食での生ビールの旨かったこは言うまでない。この日歩いた距離は21.3キロだった。

ゴルフ場の朝食は早いので今日の予定をこなすには好都合だった。8時20分にはホテルを出発できた。

昨日と同じ道を菊水寺まで戻るのも癪なので,反対側の道をグルッとまわることにした。30分ほど歩いたところで八人峠への入り口が見つかった。予定ならば昨日はここに下りてくるはずだったところだ。入り口には三十三番への道も示されており,通行不可の注意もない。昨晩の雨で峠道は濡れているので用意したスパッツを装着して登り始めた。道ははっきりしていて何ら問題なさそうである。

15分登ったところで視界が開けてきた。どうやらここが八人峠らしい。ここから右に分岐する道があり,下には建物が見える。下りていくとそこはゴルフ場管理の建物だった。作業する人に聞いたところ,建物裏の尾根を回って菊水寺に行く道があるという。分岐に戻って尾根を歩くが,伐採された樹木に行く手を阻まれて難儀しながら歩を進める。やがて道は踏み跡程度になり分岐らしき地点に来た。GPSでみるとどうやら菊水寺は左方向のようだ。痩せた尾根道を進むが下っていく気配はない。右下を見れば遙か下方に河原がのぞまれ,さらに身をのり出せば,なんと今いるところは崖っぷちである。そこで先ほどの分岐まで戻り,右方向に進んでみた。が,こちらも左手の下方はは河原でここでも崖っぷちを歩いているようである。GPSの地図は市街地図なのでこのあたりの状況は分からないが,あらかじめ頭に入れておいた状況から判断すると,どうやら昨日遠くにながめた「ようばけ」の真上にいるようである。ちょっと足を踏み外せば下の河原に真っ逆さまに転落してしまう。1時間ほど迷い歩いていたが,もとの峠入り口に戻ることにした。

再び倒木をまたいでゴルフ場管理棟への分岐に戻る。そこには,倒れてはいるが三十三番への指導標があり,やはりゴルフ場管理棟への方向を示している。諦め切れず,もう一度管理棟で聞いてみようかと下り始めると,すぐ左手に分岐する小道が目に入った。どうやらこれが八人峠から菊水寺にむかう峠道のようだ。向こう側の入り口辺りは崩落しているというのが昨日の地元の人の話だったが,すでに半分は来ているので戻ってもなんぼとばかりに進むことにした。果たして菊水寺への指導標が現われて,それなりの峠道が続いている。

ようやく見覚えのある昨日尋ねた民家が見えてきた。そのあたりで溝を跨いでいる鉄柵が外れているほかは峠道はどこにも崩落の跡はなく,通行には支障はなかった。下りてきて出合った住民と話したところ,獣には出合いませんでしたか,と聞かれて驚いた。このあたりには猪や猿が出るそうだ。また,ようばけから落ちなくてよかったですね,とも難儀をねぎらわれた。やれやれ,やっと昨日の打ち止めの菊水寺に戻ってきた。ホテルを出発して2時間半あまりの時間が経っていた。

休む暇もなく菊水寺を後にして三十四番へと向かう。やがて橋のたもとに瀟洒なホテル・バイエルが見えてきた。本当はここに泊まりたかったのだが,人気のあるホテルらしく,今回の予定では満室だったのだ。あ〜あ,恨めしい。
巡礼道はやがて旧吉田町に入ってきた。右折する角になにやら立派な建物が見えたので立ち寄ってみた。大正8年に建てられた武毛銀行の本店だった建物だそうだ。

さらに進むと前方に立派な道の駅「龍勢会館」と龍勢茶屋が見えてきた。

ここで一休みすることにして,ロケット花火で有名な吉田の龍勢祭りの展示と映画「草の乱」のロケ地の井上伝蔵邸セットの秩父事件資料館をのんびり見学した。思えば子どものころ,リュウセイという花火があったが流星ではなくて龍勢だったのかも知れないね,とカミさんに話すが男の子と女の子とでは遊びが違ったのか,噛み合わない。

1時間ほど見学・休息して龍勢会館を後にして,カタクリの幟に導かれて白砂公園の入り口の諏訪神社にたどり着き,ここで遅めの昼食を取ることにした。今日のメニューは野菜たっぷりラーメンだ。

腹ごしらえも十分となり歩き始めるとすぐに立派な馬頭観音堂に出会い,いよいよ三十四番水潜寺への巡礼道が始まった。

しばらくアスファルト道を上ると,見落としそうな指導標があり右への巡礼道を分ける。ここから札立峠を越える道が始まりまった。と,思ったら再びアスファルト道へ出て下り始めた。地図をみればこのあたりが頼母沢の集落のようだ。

土壁のお堂を見送りながら集落を登って行くと右に南無観世音菩薩の幟が見えて来て,ここからが本格的な札立峠への巡礼道が始まった。秩父は,本当に,いたるところにこのようなお堂や社がある。

急な登りだとか巻き道だとか励ましの道標に導かれて30分も歩いたところで,廃屋となった茶屋が見え札立峠に着いた。ここには破風山からの関東ふれあいの道が合流して巡礼道とともに水潜寺に下っている。

下り道は岩がゴロゴロのちょっと歩きにくい道だがしっかり整備されている。25分も下ったところで,ガイドブックにのっていた水潜寺近しのお地蔵さんのお迎えだ。

心配された雨にも降られずに,とうとう結願の三十四番水潜寺に着いた。観音堂は,2年半前に尋ねた時は修理中だったが,半年ほど前に完成したそうだ。写経を納経し,最後の読経をあげ,お願い事を心の中で唱えた。納経所には,見覚えのある童顔を残したお坊さんがいて,今回もよくおしゃべりをしてくれた。その割りには,と言ってはなんだが,印文は下手だ。カミさんと,もっと練習して欲しいね,と話しながらバス停に向かった。


調べていったバス時刻表は昨日の4月1日に改定になったそうで役に立たなかった。ところが,観音様の御利益か,5分後にバスが来るという時刻表であった。
皆野駅でも少しの待ち時間で三峰口行きの電車にのることができた。

御花畑駅に着いたのは4時半前だったので,一番近い十三番慈眼寺にお礼参りに寄ることにした。暮れなずむ観音堂の前で深々と,観音様のお陰で無事に結願を迎えられたことにお礼した。境内の桜は,前回の参拝で納経所の大黒さんが話してくれたように,見事に満開であった。

今回のパート4の一日目の行程(21.2キロ)を赤で,二日目の行程(20.4キロ)を黄で示したGPSの軌跡だ。地図の右手のグルッとまわっているコースがホテルへの足取りで,菊水寺に交わる前のY字状の足取りが「ようばけ」の彷徨だ。全行程を示した地図によると,歩いた距離は156.1キロになった。これでも四国遍路の1/9でしかない。もう一度と言わずにもう二度くらい,通しの順打ちと逆打ちで訪ねてみたい秩父である。

この巡礼を通して何が得られただろうか。鹿野島さんたちのような新たな夫婦の絆だろうか,それとも般若心経を通しての「色と空」への遍歴だろうか。それを確かめるための巡礼をしてみたいものだ。

秩父巡礼3(3月10〜11日,埼玉県秩父市・小鹿野町,晴/曇)
パート3は民宿泊まりを計画した。二十八番から三十番を半日で回り,一日かけて三十一番を巡礼する日程とした。このあたりも鹿野島さんの著書の通りだ。主体性がないが,まぁいいか。前回と同じく準急と各駅を乗り継いで西武秩父駅に着いた。駅前の「そば福」の暖簾の「秩父唯一の手打ち...」に魅かれて昼飯に入った。なるほど,蕎麦は旨い。しかし,うどんはいけない。腰もなくふにゃふにゃである。はやくも失敗してしまった。
御花畑から秩父鉄道に乗ろうとするが,やけに駅が騒がしい。と思っているうちに蒸気機関車がけたたましい汽笛を鳴らして入って来た。今日が今シーズンのSLの運行初日だったようだ。

今日のスタートは影森駅からだ。前回の二十七番大淵寺を横目に眺め,歩き始めると浦山民俗資料館があった。今日の予定ではのんびり行けそうなので立寄ってみた。館内は浦山地区の民俗芸能の獅子舞を中心とした展示だ。廃校になった中学校のアルバムなどが置かれている。

二十八番橋立堂は文字通り仰ぎ見る岩壁を背景に観音堂が建っている。その脇には馬を祭った堂がある。ここのご本尊は秩父三十四霊場でも唯一の馬頭観音ということだ。今回は般若心経の写経を4ヶ所分用意した。カミさんが手回し良く下書きをなぞる写経セットを買ってきて,一枚トライしたものだ。私も2枚と半分を写経した。下書き手本があっても,お世辞にも上手くはないが,観音様笑ってやってください。

納経帳に記帳してもらう時に尋ねれば,奥の院の鍾乳洞は10分ほどで回れるという。
さっそく入ってみると,荷物を預けなさい,という意味がよく分かる。始終腰を曲げないと歩けなかったり,ほぼ垂直の階段を上ったりする鍾乳洞だ。秋芳洞や阿武隈洞には及ばないが,まさに迷路である。内部は撮影禁止で写真は撮れなかったが,外から見ても凄いものだ。この穴のいくつかは内部にも貫通していて,内部からは陽光が射し込むのが見えた。

二十九番への道すがら,今日も老婦人を助けることになった。二人連れの片方が道路に倒れて起き上がれない。なんでも,散歩に出掛けたのだが疲れてしまいつまずいて倒れたのだが起き上がれない,という。カミさんと二人で助け起こした。カミさんは,秩父は老人ばっかり,とぼやく。さあ,今回はどんな観音様の御利益があるだろう。さらに進むと正面にダムが見えてきた。この巡礼のどこかで武甲山の脇に見えたのがこの浦山ダムだったのか。橋を渡り,少し登ったところに枝垂れ桜の樹が見えてきた。

二十九番長泉院に着いたのは2時をまわった頃だった。山門からの参道周りの庭は落ち着いていて,静寂の中に観音堂が建っている。堂内を覗いてみれば,葛飾北斎の描いたという桜花の図が掲げられている。北斎は山門の枝垂れ桜を描いたのだろうか? 写経を納め,納経所で記帳してもらう。そもそも朱印はこの写経を納めることに対する領収印のことだそうだ。

三十番への巡礼道は長い。途中に,札所ではないが,青雲寺という枝垂れ桜で有名なお寺があった。なるほど,あと半月もすればそれは見事な枝垂れ桜だろう。できればその季節にぜひここを訪ねてみたいね,とカミさんが言う。結願の暁には,お礼参りに二十九番を訪ねながらここに参拝するのも良いかも知れない。だが,休日はものすごく混みそうだ。

やがて道はR140の歩道を歩くようになった。なんとも風情のない巡礼道だ。いい加減歩き疲れたところに道の駅の案内板が見えてきた。R140から少し外れて秩父鉄道を渡ったところに,とんがり帽子の時計台の道の駅があった。面白いことに,ここのトイレは男女が別棟になっている。ここで,西武秩父駅の仲見世で買った甘食を食べた。ヨモギ甘食が美味かった。

元気が出てさらに歩き続けていくと右手にみやこ旅館が見えてきた。地図を見れば,もうすぐ今夜の宿の「しらかわ」があるはずだ。見つかったしらかわを見送り秩父鉄道を渡ると白久駅前に出た。もうすぐ三十番だが,歩き疲れた巡礼者に本日の最後の試練が待っていた。駅からはダラダラ坂が延々と続く。やがて谷津川館という大きな旅館が見えてきて,そこを右に入ったところにようやく山門が見えてきた。二十九番から2時間半掛かっていた。

三十番法雲寺は観音堂のてっぺんの擬宝珠が金ピカに輝いているのが印象的だった。堂の周りはいかにも禅寺と行った雰囲気を醸し出す,池や植え込みが面白い。納経所の呼び鈴を鳴らすが音沙汰がない。もう一度ならしてしばらくして,赤ちゃんを背負子にいれた若い大黒さんが出てきた。夕餉の仕度でもしていたのだろうか。納経所の前には藤棚,そして石段には梅の老木がある。若葉のころにはそれは素晴らしい庭が見れるだろう。

ふたたび白久駅にもどり,民宿しらかわにむかう。しらかわの女将に裏手の別棟に案内され,荷物をやれやれとおろす。まずは露天風呂にはいって,埃を落とすことにした。冬の寒さを防ぐために,農業用のビニールで囲ってある。久しぶりにカミさんと一緒に入った。十善戒の不邪淫を守ったわけでもないが,カミさんの裸を見ても淡々としたものだ。夕食の山菜のてんぷら,刺し身コンニャク,岩魚塩焼きなどなどの山の幸を堪能した。ビール大瓶2本を飲んだにも拘わらず,二人とも見事に全部平らげた。食えること,眠れることが若さのシンボルだとしたら,我々も大いなる若人だ。本日の行程は17.1キロであった。

翌日の朝食もこれまた見事に平らげた。そこへ女将さんが紙の小袋を持ってきて,三十一番までは何もないからこれを途中で食べていって,と焼きおにぎりのお接待をしてくれた。カップ麺でお昼をとるつもりであるが,ありがたくいただくことにした。9時前にしらかわを出発した。

今日も空はあくまでも晴れ渡っていて気持ちが良いことこのうえない。これが観音様の御利益だね。

小一時間で秩父鉄道の終点の三峰口についた。客待ちのタクシーの運転手さんが両神の福寿草園・節分草園の写真を見せて話しかけてくれる。でも,その写真は前回の巡礼の頃のもので今日が閉園だそうだ。今回の巡礼で初めてのツーショットを運転手さんに撮ってもらう。
駅の向うには秩父鉄道のかつての車両が展示されており,今は使われなくなった機関車のターンテーブルもあと数時間するとSLのために稼働するようだ。

駅の先で道は大きく右に曲がり荒川を渡る。荒川の水は都内では考えられないほど奇麗に,空気と同じくらいに澄んでいる。秩父を巡礼していると何処でも回りに山並みが見える。まさに盆地だということが分かる。出合ったR140の方向指示板には甲府の行き先が書かれていた。

R140を右に見送ると贄川(にえがわ)宿である。町並みも何となく秩父往還の面影を残している。集落を離れたところに突然トンネルが出てきた。案内図にはそんなの描いてないヨ。クルマ大丈夫かな,とカミさんが言うが出口が見えるくらい短いので,早足で抜けることにする。

歩き始めて1時間20分のところに猪狩神社があったのでそこの境内で一服することにした。カミさんは,イノシシがでてきたらどうする,と言うがいままでにも熊も出てこなかったら大丈夫だろう,と答える。そういえば,昨日の道端にもそんな注意書きがあったっけ。

しらかわの女将さんがいったように,今日の行程は山道ばっかりだ。神社を後に再び歩き出すと,本数が少ないにも係わらず,小鹿野町営バスが何台か追い越していく。それほど長時間歩いているわけだ。バス停の表示は白テープを貼った上に小鹿野町営バスとなっている。2年半前にこのあたりの四阿屋山に来た頃は両神村だったはずだが,平成の合併で小鹿野町になったらしい。
道の両側にイヌの交配業者の小屋があり,ワンワンと吠え立てられる。亡くなった愛犬のチロ・ハナを思い出しながら黙々と歩を進める。
ところで,前回の巡礼では札所のたびにトイレに寄ったが,今回は歩くたびに「プップップッ」とおならがでる。そのたびにカミさんが「ン,モ〜〜〜ッ」と怒って,身を引いていく。自分でも面白いほどに「プップップッ」と出てしまう。初回の巡礼の後は痔が出かかったようで,数日の間,不快な思いをした。前回,今回はこの痔主さんは息を潜めてくれたが,今日はおならである。歳をとって骨盤周りの筋肉が衰えたのか,あまりの好天による脱力のためか?

回りに人家が増えてきた。小森のバス停だ。立派な酒屋の館があった。その先の道の駅の薬師の湯に着いたところで,ようやく,カミさんはかつてハイキングをここから出発したことを思い出した。今日の巡礼道は四阿屋山に行った時のスタート地点だよ,と何度も説明したのに...。ここで湯を沸かしてカップ麺をつくり,白川の女将さんの焼きおにぎりをペロリと平らげた。

薬師堂を過ぎて左に入った行ったところが四阿屋山の入り口の福寿草園だったね,右には何か変な中国の建物(神怡舘)があったね,とカミさんの記憶は鮮明に蘇ったようだ。

しばらく歩くと,旧両神村役場に行き当たった。地図によるとこの脇から,昔の巡礼道に入っていけるようになっている。多分この辺かな,中学校とテニスコースの間の砂利道を進んでいくと道は下り始めた。ふと顔を上げれば木の枝に巡礼道を示す案内板が揺れていた。やはり,この道で間違いないようだ。十三番慈眼寺の秩父札所連合会が準備したものだが,この案内板はちょっと意地悪な場所に用意されていることがある。分岐点ではなく,正しい道に入ったところにあったりすることが良くあった気がする。意地悪というよりも,これも観音様の試練かと思えば良いか。

下った道はやがて沈下橋を懸けた薄川に出る(鹿野島さんの本では箒川ってなっているが)。ここを渡ってすぐ左折して,落ち葉の中をエンヤコラと登って行く。このあたりの巡礼道を辿るには旧両神村の立派な道標が役に立った。見上げれば札所連合会の案内札もぶら下がっている。

上り詰めて民家の庭先を通り,広い道を再び上り詰めたところが権五郎落峠だ。この道は旧両神村役場辺りからサイクリングロードに指定されているようで,ここが最高地点とある。カミさんと,権五郎さんはどっち側に落ちたんだろうね,と話しながら下っていく。

R299にぶつかって右折するが,ここを左に行けば以前に泊まったことのある小鹿荘だ。そこは100年あまり前からの旧家で,囲炉裏端で食べた懐石料理がとても印象に残っている。R299を進んで左に入り,橋を渡ると,四阿屋山の帰りに通ったことのある三十一番への道だ。クルマで来た時は見過ごしていたが,たらちね観音なるものがあった。さらにダラダラ坂をのぼると,たしかに見覚えのある,お地蔵さんが花畑のようにならんでいる地蔵寺があった。なんか商業的な感じがするね〜,とカミさんと話しながらも参拝する。

トンネルを抜けたところに,日本一という石像の仁王様を祀った山門が見えてきた。ようやく三十一番にたどり着いたのだ。朝の9時に白久を出てから4時間50分後だった。さてここからがまたもや最後の試練の階段だ。般若心経となんとかを足した段数だからお経を唱えながら登ると良い,と書いてあるが「観自在菩薩,行深般若波羅蜜多時...」あれっ,何だっけ,ゼェゼェハァハァ。

ようやく三十一番観音院の観音堂に着いた。観音堂脇の不動の滝は枯れていてちょっと寂しかった。

写経を納めて,納経帳に記帳してもらう。池の岸壁の弘法大師が爪で彫ったという千体仏やら拝んだ後,奥の院の東屋でコーヒーを淹れて一息ついた。やれやれ,今日の仕事は終わった。

観音堂の前で若い僧侶を先達に10人くらいの団体さんが休んでいた。彼らとともに,観音院を後に,栗尾バス停までポクポクと歩いた。団体さんは通りかかったバスに乗ったが,我々はさらに小鹿野の街まで歩いた。
小鹿野の街のあちこちにはしっとりと落ち着いた商家や旅館が残っている。役場を過ぎて,次回のスタート地点ともなる小鹿野警察署のバス停に着いた。う〜〜ん,今日の行程は27.9キロだった。

バスで秩父駅まで行き,そこから羽生行きの秩父鉄道の急行に乗った。急行券200円が必要とは思わなかった。秩父鉄道は荒川に沿って走り,その車窓の景色は西武鉄道とはちがって新鮮なものだった。熊谷で乗り換えて上野に向かった。
さあ,次回はいよいよ結願だ。が,桜の季節を迎え,交通,宿をどう確保しようかと思案中である。
今回のパート3の一日目の行程(17.1キロ)を赤で,二日目の行程(27.9キロ)を黄で示したGPSの軌跡だ。


秩父巡礼2(3月4〜5日,埼玉県秩父市周辺,晴/曇)
パート2は一泊して,十二番から十九番を半日で,二十番から二十五番までを一日かけて巡礼する計画だ。池袋に9時半前に着いたので,前回の特急は使わずに準急で飯能まで行って各駅に乗り換えることにした。予報では二日目は雨に会いそうだ。でも,雨具はバッチリだ。前回果たせなかった武蔵屋本店の蕎麦を西武秩父駅店で食べて腹ごしらえをして出発した。

十二番の野坂寺に行く途中の道端で,老婦人が辛そうにしている。声をかけると,気分が悪くなって歩くこともままならない,という。聞けば住まいはすぐそことのことなので,逆戻りになるが,肩を貸しながらお送りした。これも観音様のお導きだね〜とカミさんと話しながら改めて十二番に向かった。
十二番の山門は風格があるとのことだが,そうかな〜。観音堂は,ガイドブックで見たのと違って,ずいぶんと新しそうだ。本日最初のお灯明,お線香をそなえ,般若心経を唱える。今回は忘れずに,亡くなった愛犬のチロ,ハナの菩提も弔った。

再び来た道を引き返し,通い慣れた秩父鉄道の御花畑駅を過ぎて街のど真ん中にある十三番の慈眼寺に向かった。
慈眼寺の山門は工事中で,脇から入る。納経所では目薬の樹皮を煎じたお茶を振る舞われた。なるほど,境内には目薬の木なるものがあった。「めが出るように,めが開くように」と願掛けてお参りするそうだ。で,サイコロの目はどうなの? 境内の左手には大きな幼稚園があり,さらに右手には札所連合会事務所がある。ここが納経料を取り決めたり巡礼道の案内板を設置しているのだ。

前回の巡礼の前日に訪れた見覚えのある街中を歩いて,十四番の今宮坊に向かう。その途中に今宮神社があった。今宮坊からはここに戻らないので,たち寄ってみることにした。境内には立派なケヤキがある。ここは龍神様を祭っていて,ここと今宮坊で二ヶ所巡りを果たせるとの看板がある。参拝しようとしたら社務所で呼び止められる。縁起やらなにやらの説明を聞かされ,納経帳の最終ページにご朱印とご本尊を墨書きしたお札を貼ってもらった。なにやら訳が分からないままに 300円を払った。カミさんと,どうも腑に落ちないね,とけげんな面持ちで神社を後にする。

十四番今宮坊は塀もないオープンな札所だ。明治の神仏分離令でさっきの今宮神社から分かれたそうだ。と,なればさきほどの納経(神社だから経じゃいないが)料も納得いくか? 納経所は町内の民家が兼ねているようだった。そこの奥様とおぼしき方の達筆さには舌を巻いた。あまりにの達筆さに,書道に励んでいるカミさんは,達筆というよりも手抜きみたいだね,とのたまう。う〜〜ん,読めないねェ。

十五番の少林寺は秩父鉄道のすぐ脇にある。お参りしていても,電車がゴーゴーと通りすぎる。カミさんは疲れたのか,写真を撮る間の時間も階段に腰をおろして休んでいる。観音堂はまさに土蔵だ。隣の納経所まで白壁が続いている。

境内にはたくさんの石仏が配置されていて,その回りには春を告げる福寿草が植えられている。まさに春の陽気だ。歩いていると暑ささえ感じるほどだ。

踏切を渡り再び街中に戻ってくると,旨そうな和菓子を売っている店に出合った。昨日の雛祭りでカミさんと嫁さんが桜餅を作った残りを持ってきているので,桜餅はやめにしてうぐいす餅と秩父らしい芋餡の饅頭を店内で食べる。蕎麦屋と和菓子・饅頭屋がやけに目につく秩父の街だ。再び歩き出し,街中をやや外れた十六番の西光寺に向かう。

十六番の西光寺の山門までの道のりは両側に満開の梅が並んでいる。ここで,笈摺,輪袈裟で正装した巡礼姿の夫婦に出合った。彼らの読経はぴったり息が合っていて,般若心経しか知らない私たちには初耳の経すらも読んでいる。ちょっと気後れしてしまい,終わるまで待ってから読経した。が,カミさん曰く,ここでの読経はつっかえつっかえだったね。そりゃあせりますヨ。

境内の右手には古い札堂がある。柱には昔の木の納め札を釘で打った痕がいっぱい残っている。巡礼を「打つ」という語が理解できる。左手には大きな酒樽の中に大黒天が鎮座している。ここには納め札でなく,会社関係の名刺が貼ってある。商売繁盛を祈願したんだろうなァ。

観音堂の右手にコの字形の回廊堂があって,お四国さんの本尊のコピーが祀ってある。先ほどの夫婦のあれこれの回想話らしきものが聞こえる。う〜〜むむ,おぬし達はお四国もやったのか。でも,今日の彼らはクルマでの巡礼,こちとらは歩き巡礼だい。

十 七番の定林寺でもさっきの夫婦に出合った。歩き巡礼も街中だとクルマに負けないくらいけっこう早いもんだ。彼らの読経を待つあいだに,梵鐘をついてみる。カミさんはそっとついたが,私は思いきりついてみた。ところがカミさんの耳元でついてしまったので,カンカンに叱られた。南無観世音,南無観世音,南無観世音。

十八番の神門寺(ごうどじ)はR140に面してある。クルマの往来の激しい国道を渡るのは至難の業だ。信号付きの横断歩道をつけてもらいたい。納経所には巡礼用具がそろえてある。ここで,手のひらに入るくらいの般若心経の経書を買った。でも,これまで読んでいた納経帳付属の心経の句読点とは違っていて(ミスプリントだね),この後の巡礼での読経に苦労した。なんとなく埃っぽい神門寺を後に,本日最後の札所の十九番龍石寺に向かう。

十九番龍石寺は地図では大野原病院の前を左折するはずだが,その病院が見当たらない。ちょっと先をみるとクルマ用の案内板があるのでそれに従う。ここもオープンスペースの寺で,名前のように岩盤の上に立てられている。堂の向こう側には,明日のコースで出合う荒川が見える。少しずつ日は長くなっているが,時計は4時15分を指していた。

大野原駅から秩父鉄道に乗り,御花畑から西武秩父に向かった。出発前に預けた荷物をコインロッカーから取り出そうとしたら,なんと,キーを回しただけで(料金400円をいれずに)開いた。老婦人を助けた御利益を観音様が授けてくれた,とカミさんと解釈してありがたく荷物をとり出した。本日の行程は13.9キロだった。

駅から歩こうかとも思ったが,面倒なのでタクシーを拾って本日の宿のナチュラルファームシティー農園ホテルに向かった。ホテルは小高い丘にあり,夕陽に染まる秩父の街が俯瞰できるつくりだった。そして,温泉に入った後のディナーはズワイガニと牛肉食べ放題のバイキング。インターネット予約の特典のドリンクサービスでは,なんと地ビールもオーケーだった。食べるほうを優先したため,ビールはこの一杯で打ち止めとした。これでお1人様9850円とは安い。さらに,以前のポイント還元で1700円の割引となった。カミさんも私もバイキングを堪能した。これで明日も元気に付き合って貰えそうだ。南無寿枝子様,南無寿枝子様,南無寿枝子様。

二日目はどんよりと雲って今にも降り出しそうな天候だった。ホテルから見る秩父の街やその向うのこれからのコースも霞んで見えない。ともあれ,フレッシュな野菜,焼き立てのパンなどたっぷりのバイキング朝食をたらふく仕入れた。私は洋食,和食の両方にトライした。牛乳とりんごジュースそして旨いコーヒーを二杯も堪能したのはいいが,これが今日の札所毎のトイレに繋がってしまった。

タクシーを呼んで,大野原駅に向かった。月曜日とあって近所の高校へ通う生徒達と出合う。どこもかしこも,お決まりの超ミニスカートにおんなじようなアイライン(?)を入れた顔つきだ。この子達は歩き巡礼の(とわかる格好ではないが)私たちをどんな風に見ているんだろうか? 荒川を渡る橋は歩行者専用で渡りきったところのクルマのひっきりなしに通る道路を横断する時は命懸であった。渡ってみれば,歩行者は下の回廊を利用せよ,との看板があった。もっと分かるところに置いてヨ。

少し上ると二十番岩之上堂を示す,観音参り巡礼の幟が見えてきた。この幟は今日のコースのあちこちで見かけ,巡礼の良い指標となってくれた。岩之上堂は秩父札所で一番古い観音堂ということだ。お寺ではなく,個人が管理しているという珍しい観音堂だ。堂内には厄除けの猿子が万灯のように飾られている(瓔珞−ようらく−と言うそうだ)。観音堂の下には荒川が流れている。明治以前は荒川を船で渡って巡礼したそうだ。そこからは,文字通り,岩の上に観音堂が見えたことだろう。堂の裏に回ってみるとそれは立派な庭園とその向こうに秩父の街が望める。なんとも風情のある札所だ。あと二月もしたら新緑に囲まれてもっと素晴らしいお参りになるに違いない。今日の最初の札所に相応しい感じだ。

二十一番の観音寺は田園風景の中の県道沿いにあった。境内の右手には地蔵と宝篋印塔がある。ここで頂いた江戸巡礼古道のマップに従って歩くことになる。

県道から左に入る明治巡礼古道の寺尾みちはほっとするような巡礼道だ。踏み固めたわらじの跡が今でも残っているような気がする。野良仕事の男性に,自然に,おはようございますと挨拶がでる。すると手を休めて我々に,ご苦労様です,と挨拶を返してくれる。県道から入る二十二番への入り口には立派な道標と地蔵様がましましている。その向こうにはハープ橋と武甲山が霞んで見える。

二十二番の童子堂はそんなのどかな巡礼道をたどった,これまたのどかな田園風景の中にあった。なんとも愛くるしい仁王様がまします山門をくぐると右手に観音堂がある。休日だったらここは近所の悪ガキたちの遊び場になるのだろうか? ここで梅干しをお茶受けに,一服した。まさに一服という言葉がぴったりのゆっくりとした時間が流れていくのを感じる。


二十三番への巡礼道は明治巡礼古道の中山みちだ。童子堂から永田城の防塁跡を巡って道路を渡り,古道に入っていく。ちょいと険しい坂を息を切らせて登っていく,別荘らしき邸宅を過ぎると茶店の並ぶ音楽寺に到着した。

二十三番音楽寺は本堂の左手の階段を上がったところに観音堂がある。明治初め(1884)の秩父困民党事件の蜂起場所だそうだ。右手の鐘つき堂の鐘を打ち鳴らして事件が始まったとある。その鐘を,今度はカミさんに叱られないように,静かにならしてみる。120年ほど前には,死ぬかも知れないと思いつつも自分と仲間を鼓舞するために,力いっぱい打ち鳴らしたのかも知れない。この寺の名前が呼び寄せるのだろうか,堂内には聞いたこともない歌手のポスターが所狭しと貼ってある。 ヒットを祈願して奉納したのだろうか。堂の右脇の小道を上って十三塚の十三地蔵にお参りにいく。これは1234年に秩父霊場を開いた十三権者(閻魔大王やら白河法皇が入っている!)に因むものだそうだ。後になって知ったが,十三権者は,昨日巡礼してきた十三番慈眼寺が有名だそうな。晴れた日には堂からも十三塚からも秩父の街が望める絶景の地だそうだ。残念。


音楽寺を下ったすぐのところは秩父ミューズパークの大きな駐車場だ。ここでカップラーメンのランチをとることにした。一息ついたところで,道を渡り,紅梅,白梅,黄梅が満開の梅園を抜け再び出合った駐車場の脇から江戸巡礼古道の長尾根みちに入る。

民家の庭先や牛小屋の脇を抜ける古道を35分も歩いたところで,沢に出合った。手元の2002年の秩父巡礼道マップ&ガイドには,今は渡れない,とあるが今日は渡ることができた。でも,雨降りで水嵩が増せば歩けないかも知れない。沢を渡るとすぐに急坂に見舞われた。

二十四番法泉寺に至るには100段あまりの石段を登らなければならない。まあ,まだこの程度ならカミさんも私も問題ない。お灯明とお線香をあげ,読経を済ませて納経所で記帳してもらい境内の東屋で休憩をとった。このあたりから心配していた天候が崩れ出し,雨具の世話になったが傘をさすくらいで十分だった。やがてこの雨は止んだ。観音様はまだお守りくださってるようだ。

再び古道を歩いて荒川に出合う。高そうな旅館の前を通り過ぎると,絵になるまち・写真になるまち展望広場という武甲山を望める東屋に出合った。さらに古道をすすみ,道路に出合ったところが酒づくりの森だった。

ここで,日本酒やワインを試飲させてもらい,お返しに酒好きの息子への日本酒とカミさんの手芸仲間へのお茶受けの酒まんじゅうを買った。次の二十五番久昌寺に着くまでには,葷酒山門に至を許さず,も醒めてオーケーだろう。

二十五番久昌寺の山門をくぐり観音堂に参拝する。右手に見える弁天池を巡って納経所で朱印と本尊を書き入れてもらう。このお寺も春には美しい景色になるそうだ。境内を出た駐車場の片隅で一休みする。インスタントの汁粉は意外にも美味かった。時計をみればまだ3時だ。この分なら二十七番までいけそうだ,とカミさんに相談すると,行こう行こう,と頼もしい答えが返ってきた。


道端の弁天茶屋という大きな食事処を横目にすすみ,荒川を渡る。そこからトラックの行き交う道をV字に上って行く。なんとも不快な巡礼道だが仕方がない。R140を横切り,右に影森駅を見ながら二十六番円融寺に着いた。
まずは本堂の参拝と納経帳への記帳をすませて,奥の院の岩井堂への道を尋ねた。近くの昭和電工を抜けて300数段の階段を上がれば30分で行ける,と言う。納経書のすぐ脇から裏に回り昭和電工の正門に出る。守衛さんから,グリーンベルトを歩いて行きなさい,と説明を受けて,工場を抜ける。琴平神社への参道を左に見送り,やがて300段の石段にたどり着いた。階段中央には手すりが取り付けられているが,踏面は何人もの巡礼者の歩きで磨り減っている。ハアハアと喘ぎながら登る。石段が終わり自然石を踏みしめていくとそこには岩肌を穿って立てられた観音堂の岩井堂があった。

参拝を済ませて,次の二十七番へはどうやって行こうか,とカミさんに問う。すると琴平丘陵ハイキングコースで大丈夫,だと言う。時間は4時20分,案内板には30分とある。急いで歩かないと納経に間に合わない。そこそこの山歩きコースをハイペースで歩いていく。途中の護国観音への鎖場はパスして下りにさしかかると,カタクリ自生地に出た。やがて,観音堂の屋根が見えてきた。

この二十七番大淵寺の観音堂も最近(平成8年)に再建されたものだそうだ。秩父札所の幾つかは秩父大火(明治11年,1878年)で焼けて再建されたものだが,ここは1919年に焼けたそうだ。中学生がカードゲームで戯れている中で読経を済ませて,下の納経所で朱印をいただく。4時50分だった。境内の延名水で喉を潤した。これで33ヶ月長生きするそうだ。少なくとも2009年いっぱいは生き長らえると言うことだ。

影森駅から秩父鉄道の御花畑にもどった。西武秩父の仲見世でわらじカツ丼を食べた。なかなかの美味であった。

一日目の行程(13.9キロ)を赤で,二日目の行程(26.6キロ)を黄で示した足跡だ。二日目の行程はまことに歩き巡礼に相応しい道だった。自転車で巡礼する時にはオンロードを走ったほうが良さそうだ。


スノーシューハイキング(2月27日,栃木県日光市湯元,晴)
昨年,果たせなかったスノーシューを履いてのハイキングを実現した。今回はちゃんとハイキングシューズ,スパッツ,スキーストックを持参した(昨年はスノーシューを借りる時に靴も貸してくれると勘違いしていた)。前夜,急に思い立ってクルマのタイヤをスタッドレスに組み換えた。多分,道路に雪はないと思うが万が一を考えての準備だ。案の定,日光の湯元でも道路にも駐 車場にも雪はなかった。日光湯元ビジターセンターでスノーシューを一日借りることにした。ストック無しで1000円であった。金精道路から石南花平のコースは雪が無いところもある,というのでまずは金精沢コースを回ることにした。どうやら今日の来訪者は我々だけらしい。湯元スキー場わきのいくつかのホテル・ペンションを過ぎると金精沢へはいる6番の標識が見つかった。ビジターセンターで貰った地図にはこのような番号は記入されてない。ここでスノーシューを履いて歩き始めた。スノーシューの幅があるので歩き方は少しガニマタ気味になる。10分も歩けばほとんど違和感はなくなった。予想していたよりも雪はたっぷりあったものの,ややシャーベット状になっている。それでも,踏み固まってないところを歩くのは良いものだ。

30分ほど歩いたところで腹が減ったのでお昼をとった。今日は珍しくおにぎりだ。でも,冬のおにぎりは冷たくなってしまい,ポタージュのスープがあっても,今一つだ。しかし,インスタントでも,コーヒーは旨かった。やはり,冬は暖かいものが一番だ。

腹が膨れて元気が出たので再び歩き出す。折り返し点近くで振り返ってみると木立の間に男体山が見える。空は晴れ渡り,絶好のハイキング日和だ。足元をみれば,何かの動物の足跡が点々とついている。三点セットになっているのはウサギだろうか?

戻 るコースは下っていて,これは登りよりもちょいとおっかなびっくりの歩き方になってしまう。一本の木立をみるといくつかの穴がきれいに空いている。アカゲラかコゲラが空けた穴のようだ。

やがて,出発点にもどった。今日のハイキングはこんなコースでした。歩いた距離は8.8kmでしたが,休んでいた時間もけっこう長いです。景色を眺めたり,マツボックリを集めたり,のんびりしたハイキングでした。でも,しっかりと疲れは出ていました。

にごり湯と看板を出していたペンションの日帰り温泉をかりて,汗を流した。我々が今日の初めての利用とあって,湯は熱くて水を足さずには入れなかった。出た 後も体から硫黄の臭いがプンプンしていた。帰り道の湯ノ湖湖畔の公園には氷の彫刻が展示してあった。残念ながら少しばかり溶けていた。竜頭の滝によってみ ると,しぶきが凍っていた。


秩父巡礼1(2月11-12日,埼玉県秩父市周辺,晴)
ふと書店で見かけた「巡礼で知るカミサンとの付き合い方(鹿野島孝二,日本放送出版協会,2006.9)」が妙に心に残っていた。そのうえ,昨年の10月の四国旅行のときに何人かのお遍路さんに出合ったこと,先週の東京サバイバルウォークの完歩(我孫子〜銀座,45キロ)などなどが後押しをして,ついに念願の秩父34札所巡りが実現した。まずは鹿野島さんに倣って一番から十一番を前泊して打つことにした。時はあたかも春のようなポカポカ陽気。巡礼にうってつけの日和だ。池袋を10時30分の特急レッドアロー号で発った。

西武秩父駅から道標を頼りに,秩父神社に向かいながら,蕎麦屋を探して歩く。が,人気の蕎麦屋は満員の行列だったので諦めて,露地を入り看板もない民家のまんまの蕎麦屋を探した。出迎えた親爺はいかにもといった風体で,この辺りの昔ながらのキンピラの蕎麦が売り物だという。だが,出てきた蕎麦は量は少ないし,水切りもいい加減なグチャグチャの蕎麦だ。早々に退散して神社に向かう。

秩父神社の扁額には知知夫神社と書いてあった。本殿の回りには見事な彫刻があり,東側には左甚五郎作の縛られた龍がある。なかなかの由緒をもつ神社だ。

神社の前にある秩父まつり会館と少し離れたところにある秩父札所巡礼のやかたを訪ねた。まつり会館の売店で「札所めぐり 秩父巡礼道マップ&ガイド」を見つけた。副題に迷わず歩けるなんてついていてなるほど詳細だ。しかし地図は北が下になっていて他のガイドブックと比べる時に戸惑ってしまう。
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巡礼のやかたでは六観音,石仏(のレプリカ)やら34ヶ所の写真がある。ここで巡礼を代行できるとでも言いたそうな... あこがれの巡礼装束をまとって記念写真を撮った。せめて輪袈裟をまとって巡礼してみたいと思った。時間があったので,芝桜で有名な羊山公園に行ってみた。ここには棟方志功のコレクションで有名な「やまとーあーとみゅーじあむ」がある。ここの学芸員はとても親切丁寧(過ぎるくらい)に解説してくれた。高校時代にこっそり隠れて読んだ谷崎潤一郎の鍵の挿し絵に使われた版画もあった。二菩薩十大弟子の柵は迫力満点であった。おもわぬ拾い物をした思いだった。

秩父鉄道の秩父駅前のビジネスホテルに宿を取った。歩き疲れたせいか,夜は前途を祝っての乾杯が過ぎて8時には寝入ってしまった。

朝食の時間前の6時52分に秩父駅から皆野行きのバスが出るが,食事をとらないわけにはいかないのでタクシーを使って一番の四萬部寺まで行くことにしてゆっくり朝のコーヒーを楽しんだ。四萬部寺では,まずは線香,ローソク,納経帳を求めた。納経帳にはすでにここの朱印が捺されていた。まだ,参拝は終わってないんだけど...。炉はきれいに掃き清められていて我々が一番の参拝だということが分かる。「寂聴 般若心経」からコピーした開経偈に続き般若心経を唱え最後に法華成仏偈で締めくくった。隣のカミさんは神妙に現代語訳の般若心経を見ている。読経なんぞ初めての体験だが幸いにカミさんは何処が間違っているのか分からないらしい。さあ,いよいよ秩父巡礼の始まりだ。泊まって見たかった,旅籠一番を横目に四萬部寺をあとに300年前の道標を頼りに二番へと歩き出した。

二番へは,なんてまぁ初っぱなから,と言いたくなるような登りが続く。斜度は15%にも及ぼうという登り坂だ。この季節だからからだもポカポカ暖まるが夏だったら汗びっしょりだね,とカミさんに話しかけるが黙々と歩を進めるばかり。赤いあぶちゃんをまとったたくさんの地蔵様に迎えられて二番の真福寺の観音堂に到着。ここは無住の札所だから納経は下山した光明寺でお願いすることになる。

光明寺の仁王像に迎えられ境内脇の納経書で納経朱印をいただく。

三番の常泉寺の観音堂は本堂から離れて左方向にあった。参拝を済ませて本堂の納経所に行くと,本堂の縁側には子持ち石が置いてあった。二人の息子夫婦たちに健やかな第2子が授かりますようにと撫で撫でする。はてさて,御利益の程はいかに?

四番の金昌寺は秩父札所でも人気のスポットということだ。山門の大きなわらじに出迎えられる。境内には寄進された石仏が所狭しと安置されている。

中でも有名な石仏が観音堂の縁側に安置されている慈母観音像だ。乳飲み子が観音様の乳首をつまんでいる姿が愛らしい。観音堂脇にはかつての政治家の荒船清十郎の墓所があった。

五番の語歌堂への道すがら,池袋で買ったパンを食べる。巡礼道では食事処もコンビニもままになりそうもないので,あらかじめカップヌードルやパンなどを準備した。到着した語歌堂も無住の札所だ。塀も囲いもない開放的な境内には観音堂守りの袢纏を着たおばあさんが女児を遊ばせていた。

納経朱印は近くの長興寺でいただくことになっている。途中,語歌堂で出合った小輪自転車の巡礼に,その自転車で二番の劇坂を登るのか,と聞いて見ると,押しで行くという。彼は正月に四国遍路を体験し,面白みを覚えたという。道理で般若心経も読めたわけだ。我々も次にはBD-1で巡ってみようか,とカミさんに誘いかけるが聞こえなかった様子だった。

六番への道は正面に武甲山を仰ぎながらである。山の中腹に見える土煙は石灰岩の採掘作業のためだろうか。かつてはなだらかだったであろう山容は中腹がすっぱりとえぐれてピラミッドのようになっている。300年前の巡礼はこのような風景を思いもしなかったであろう。
六番の卜雲寺の山門下には願い地蔵尊が安置されている。本堂の真正面には武甲山が控えている。さすがに6度目となると般若心経の読経も慣れてくるが,ちょいと気取って読んでみようとするとつっかえてしまう。玄奘がサンスクリット語から漢訳した経を,中国語の発音でもない日本語の発音で読経するわけだ。カミさんには現代語訳を渡してあるが,この現代語訳を読んだのではラップ調の読経にはならない。なんともおかしな話だがと思いつつ成仏偈を終える。気が付けば読経の後の礼が腰から折れるかたちとなっていた。境内の脇で湯を沸かしカップヌードルのお昼をとることにした。あたりは静かで,あいかわらずまったくのどかな日和だ。まるで春のようだ。

七番は広い境内をもつ法長寺だ。本堂の向こうには現代の秩父を象徴するセメント工場が見える。ここに入ったのは脇からの山門で,退出したのが正面の山門だったので地図との照合が分からなくなってしまった。で,クルマが騒がしいR299を少しばかり歩く羽目になった。我々は順打ちに拘ったが,順打ちに拘らなければ五番から七番にまわってから六番というコースが無駄がない。なんでこんな順番にしているのだろう。これも試練かと,思えば苦労でもないか?

八番はコミデカエデで有名な西善寺だ。今回の季節では緑でも紅でもなく,枝ばかりのカエデだった。しかし,新緑と紅葉の季節は見事らしく,その時は巡礼者以外は拝観料を取るそうだ。境内にはほかにおびんずるさまが鎮座している。ここで私はこの巡礼で2度も捻挫した左足首と持病の半月板損傷の右膝を撫でた。カミさんは頭を撫でた。

九番の明智寺へは西武鉄道に沿って埃っぽい道を歩く。明智寺は平成二年に再建された観音堂がまぶしかった。

十番の大慈寺への途中には木造の横瀬小学校がある。横断歩道橋の脇には歩道橋商店という面白い屋号の雑貨屋があった。この先の畑の中の巡礼道への入り口を鹿野島さん達は見失ったそうだが,我々が買った地図では丁寧にしるされていて迷うことはなかった。良く目を凝らせば細い入り口には昔の道標があった。ようやくたどり着いた大慈寺は改修中であった。ちょっと残念。

十一番への道は大慈寺の裏山の尾根筋を辿る古い巡礼道をとった。道にはセメント工場とを境する柵が設けられている。下りの途中には稲荷神社があった。この稲荷をさらに降りると今日の最後の十一番の常楽寺があった。

十一番の常楽寺にたどり着いたのは3時45分であった。この季節はあと15分で納経所の閉じる時間であった。

陽が落ちかかる秩父の街を秩父駅に向かう途中に道の駅があった。ここで,湯を沸かしてコーヒーを飲みながら名物の(?)ジャンボコロッケを頬張った。秩父駅でロッカーに預けた荷物をとり,西武秩父駅の仲見世でビールと焼き鳥とお土産を求めて5時30分の特急に乗った。

かくて,秩父巡礼パート1を無事に終えることができた。歩いた距離は29.0キロであった。この巡礼で忘れたことがある,一つは昨年の六月に亡くなった愛犬ハナの供養,もう一つは参拝を終えて山門を出る時の礼である。次回は余裕が持てるだろうから忘れずに。


東京サバイバルウォーク2007(2月3日,旧水戸街道,晴)
節分の日,3年ぶりに三連勝シニアチームの恒例の年中行事である「東京サバイバルウォーク」にカミさんと参加した。JR我孫子駅から東京銀座7丁目の金春湯までを,旧水戸街道を中心に歩こうという企画だ。三連勝シニアチームは50歳以上のスポーツ好き(自転車,マラソン,トライアスロンなどなど)のチームだ。東京サバイバルウォークはメンバーの贔屓の新橋のバーのママさんを,東京大地震が起こった時に我孫子から助けに行こう,とか言うような冗談が本当になったものだそうだ。実際にこんなところにも写真で紹介されている。当日は風も無く,晴れた絶好のウォーキング日和となった。まずは7時に我孫子駅に集合した。

途中の南柏で何人かが合流した。ここで,足のマメができようになったので用意したワセリンを足裏に塗った。これが後に効果を発揮し,完歩を可能にさせた。

松戸でも何人かの参加者を合流して,旧水戸街道を上っていった。時々,当時のままの庚申塚や石仏が出迎えてくれる。

二時間半ほどで北小金の東漸寺に着く。ここは枝垂れ桜で有名なところだそうだ。立派な山門から広々とした境内にゆったりとした時間が流れているが,我々は先を急がねばならない。およそ時速5キロでスタスタと歩を進める。

江戸川の堤防に出て,今日の先達から昔の水戸街道のことや隅田川についての説明を聞きながらポカポカ陽気の中を歩んでいった。

矢切の渡しで舟に乗り向こう岸の東京都に渡る。

舟を降りてここでも数人を合流して,節分の豆まきで賑わう柴又の帝釈天にむかう。ここの「とらや」という食堂で昼食にするが,注文したカツ丼と親子丼はひどいものだった。両方ともに味が薄くて,というよりも味が無い,おまけにみそ汁も同様。腹が減っていたので平らげることが出来たが,普段の食事ならば絶対にここには入らないほうが良い。ここでは,フーテンの寅さんの衣装をまとった自称ボランティアの芸人の演技がおまけに付いた。

さらにテクテクと下町を昔は賑わっただろう玉の井界隈を過ぎて,荒川を渡った。このあたりから先日の七福神巡りの見慣れた風景が続き,カミさんと先が見えたようだと,一安心する。歩くことがほとんどない私は(インドアのトレーニングや通勤での自転車は毎日であるが)ともすればメンバーから離れてしまう。時速5キロはちょっとキツイ。

4時少し前に,長命寺の桜餅を食べながら休憩する。三枚の大島桜の葉の塩味は餡の甘さと丁度いい加減だ。しかし,店の人は,桜の葉は餠の乾燥を防いだりするための物だから本当は食べない,と言う。食べる前に言ってくれヨ〜。

浅草を抜けて,小伝馬町の吉田松陰終焉の地を訪ねながら日本の道路の原点の日本橋にたどり着いたのは5時20分であった。この道標の真下の道路に,まさに,原点が打ってあった。

夕闇迫る銀座通りをおのぼりさんよろしく歩き,7丁目の金春湯という銭湯についたのは,我孫子をでておよそ11時間後であった。汗と埃を流して,新橋の呑みどころに繰り出した。しこたまビール,ワイン,酒を飲んで,カミさんとヘベレケ状態でようやく我が家に帰り着いた。

GPSで見ると,歩行距離は44.6kmを指していた。
それにしても,しばらく振りにお供したメンバーの元気なことといったらなかった。完全に水を空けられています。
我が家を出てから戻るまでの歩数は64,381歩であった。昔流にいうと10里を歩いたことになる。


それにしても,昔の人はすごい。砂利道をわらじで歩いたなんて,ちょっと信じられないネ〜。足首前面や膝の裏側の腱に痛みが出ていて階段の上り下りが辛い。やれ,やれ,お疲れさまでした。さて,秩父巡礼はこの調子なら?

伊予ヶ岳(1月14日,千葉県富山町,晴,336.6m)
初ハイクには暖かな房総のマッターホルンと呼ばれる伊 予ヶ岳を選びました。カミさんが水仙を見たいと言うし,2003年の富山ハイクの時の穴埋めです。ハナちゃんもいなくなったので鎖場にも挑戦です(ハナちゃんゴメンね)。

平群(へぐり)天神社の夫婦樟に祝福されて(?)のスタートです。小学校裏の水仙が言ってらっしゃいと手を振ってくれます。

登山道はよく整備されてますが,土が流れてむき出しの杭となってしまっているところもあちこちです。

30分ほどで東屋のある展望台につきました。ここからは3年前に登った富山がきれいに見えます。いよいよここからが正念場の鎖場です。パーティーが降りて きたり,登っていったりで大混雑です。

しかし10分程で南峰です。周りが鎖で囲まれた頂上は一人が立てる位しかスペースがありません。360度のパノラマが望めます。富山に鋸山も遙か下に見えるような感じです。期待した富士山は残念ながら望むことは出来ませんでした。後から後から登山者がくるので早々に北峰に向かいます。


下って登り返すこと10分で北峰です。ここには三角点がありました。ここから見ると,先ほど立った南峰がこんなように見えます。マッターホルンの異名もなるほどと思わせます。

再び,南峰,鎖場をたどり展望台でお昼としました。ここも団体さんで満員です。カップヌードルとおにぎりの昼食もそこそこに下山することになりました。
富山分岐を県道方面に道をとって下ると,遅咲きの菜の花です。県道は別名水仙街道と呼ばれ,道の両側のあちこちに咲いていました。

帰り道の道の駅「富楽里(ふらり)」で美味しそうな太刀魚とイナダを安く買いました。太刀魚は煮付けでイナダは刺し身で夕食の食卓に載りました(カミさんに感謝)。
ここで,パンフレットをみるとすぐ近所に水仙の見どころがあると言うことです。小一時間ほどの散策をしてみました。それはそれは,大きな水仙の群生が2ヶ所ありました。あたりは水仙の匂いが漂ってます。疲れた体が癒されるようでした。本日の歩行数は17,774歩でした


隅田川七福神巡り(1月7日,東京都台東区,晴)
松の内も今日(2007.1.7)が終わり。思い立って隅田川七福神めぐりをしようということになった。35年ほど前にはとバスで回って以来である。今日は,秩父巡礼の予行演習をかねて,浅草から鐘ヶ淵までの行程を徒歩で回ることにした。
浅草をスタートしてまずは浅草寺にお参りすることにした。仲見世はまだすごい人出だ。

とにかくもお参りを済ませ,言問橋から隅田川の向こう岸に渡ることにした。東京の空は折からの強風のためにきれいに晴れ上がっている。

言問橋を渡った隅田公園の外れには牛嶋神社がある。ここでは撫で牛が迎えてくれる。カミさんは腰を,私は膝を撫でた。どうぞ治りますように。

七福神めぐりのスタートもしくはゴール地点となっている三囲(みめぐり)神社は混雑している。ここには恵比寿神と大黒天がまつられている。家内安全と自転車トラックレースの戦勝を祈願した。カミさんはスタンプラリーを始めた。

次は布袋尊のまします弘福寺だ。ここでカミさんは,暮れからの咳が止まらないので「弘福寺の咳止め飴」を買った。パッケージを見れば川崎の大師町の産である。川崎大師ではどんなパッケージなのだろうか。

お隣は弁財天をまつる長命寺だ。ずいぶんとモダンなつくりのお寺です。

実はここのお目当ては桜餅なんです。塩漬けの桜の葉と餡餅の絶妙なハーモニーを堪能して一休みです。ここは,我孫子〜新橋サバイバルウォークの途中に立ち寄ったことが2度あります。

道路を渡れば,今度は言問団子です。白・黄・黒の三色の団子もまた美味でした。

お昼もとらずでしたが,甘いものばかりを食べたのでエネルギーの補給は十分で足取りも軽々と墨堤通りをちょっと離れた百花園に向かいます。
福禄寿がおわします向島百花園へは入場料を払わなくてはなりません。本尊の福禄寿は頭部だけという珍しいものでした。園内は文人墨客の碑が色々ありますが,どれも知らないものばかりでした。

百花園とは言うものの,この季節は寂しいものです。しかし,春の到来を思わせるものがありました。そうでした,今日は七草でした。

お隣は寿老神の白鬚神社です。境内には重さ1トンもあるそれは立派な神輿が鎮座しています。

もとの墨堤通りに戻り都営アパート脇を歩いていると,アパートに向かう何やら団体があります。後をついて行くと,隅田川べりの隅田川神社にたどりつきました。

ここは七福神には関係ないので,お賽銭は省略してちょっと離れたところからお参りをしました。再び墨堤通りにもどり,榎本武揚の銅像をながめながら下町の町並みに入っていきます。と,こんな古色然としたなんとも懐かしい家屋に出くわしました。

最後のお参りは毘沙門天の多聞寺です。

カミさんのスタンプラリーも7つ揃いました。戻り道は鐘ヶ淵駅から浅草にしました。ここまで休みやお参りをいれて3時間の道のりでした。

浅草からは再び仲見世を冷やかし,途中のミスタードーナツでかったドーナツを食べながら上野までを散策しました。上野でもアメ横を冷やかしたり,忍ばす池の池ノ端の骨董市を眺めたりして最後の正月気分を味わいました。
上野駅に着いてみれば,強風のために関東圏内の鉄道ダイヤは大荒れでしたが,運良く20分程待っただけで常磐快速に乗れました。
ここまでの歩数は24,974歩でした。自転車で鍛えているつもりですが,さすがに脚が疲れました。カミさんは,秩父巡礼を連日で歩くのは絶対無理,と言っていますが,はてさて...

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